宗教は人を救うことができるのだろうか。
人は誰もが何らかの支えを必要としている。
特に人生の最終段階において、自分にとっての支えが何であるかに気づくことは、スピリチュアルケアにおける重要なプロセスの1つ。
強い信仰がある場合には、それがその人にとって大きな支えになると思うし、僕も在宅医療の現場でそのようなケースをいくつも経験してきた。
スピリチュアルケアにおいて、宗教は考慮すべき重要なファクターの1つであることは間違いない。
しかし、今日はこれまでとは違う形で宗教とケアの関わりについて深く考えさせられた。
今日の午後、訪問したのは北京市郊外にある198床の老人ホーム「北京市海淀区双縁敬老院」。
2007年に養老施設としての許認可を受けたこの施設は、小学校の跡地を再開発したもの。北京中心部より45キロとかなり遠いこともあり入居は進まず、2015年まで入居率は50%に満たなかった。しかし、その後わずか2年で運営は改善、全国から入居者希望者・見学者が絶えず、支持者からボランティア・寄付が集まり、隣接する河北省ではなんと1000床という大規模施設の運営を受託されるまでになった。
一体、何がキーとなったのか?
それは仏教(浄土宗)である。
たまたま施設長が仏教徒であったこと、安徽省の有名なお坊さんから施設に仏教を取り入れてはどうかという提案があったこと、近隣の住職が施設に入居されたことなどが重なり、施設運営に仏教の精神が取り入れられるようになった。
ホーム内に仏堂を作り、安徽省にある有名な寺院から住職が派遣され、そこからスタッフも入居者も仏教に関しての勉強と実践が始まった。
現在は朝6時の「念仏拍手体操」に始まり(これは入居者にとても人気があるそう)、1日3回の念仏の時間、夕食後には法師による説法・講話の時間もある。念仏や講話には歩けない人も歩行器や車いすで参加する。
現在常駐されている住職は宗源法師。
人間には信仰が大切。信仰は心の支えになる。
「南無阿弥陀仏」と唱えることで、穏やかに過ごすことができる。
念仏を唱えることで、精神的にも身体的にも状態がよくなっていく。
寝たきりで入居した高齢者が、立ち上がって歩けるようになった。歩けず精神的に落ち込んでいた方が、元気を取り戻した。
宗源法師が教えてくれた個別のケースは、どこまでが宗教の力なのかはわからない。
ただ本人たちは念仏を唱えるという行動が、自分たちをよくしたと信じている。
治らない病気や障害とともに生き、最期の時が徐々に近づいていることを実感する入居者たちにとって、極楽浄土を信じることは、支えになり、人生の希望になる。だからこそみんな、毎日新鮮な気持ちで念仏と説法に臨んでいるのだ。高齢者の精神的な支えになれることはとても大切なこと。
宗源法師は静かに、しかし力強くケアにおける宗教の重要性を説明してくれた。
看取りもほとんど施設でやっているという。
施設には医師が一人常駐しているが、看取りにおいては積極的治療はやらないし、本人も希望しない。入院を選択する人もいない。
それでもほとんどのケースにおいて苦痛はなく、誰もが「お迎えが来た」ということをポジティブに受け入れる。
そして多くの方は亡くなる前にそれを自覚し、家族と対話をする。家族も心の準備ができる。
宗源法師によれば、看取りは極楽浄土に行くために一番大事なプロセス。
人生の最期の道を信仰とともに歩んでいくことが大切なのだという。
そして仏画が見守る特別な部屋で、他の入居者と一緒に最期を見守る。
建物の設えはかつての特別養護老人ホームを彷彿とさせる。
病院のような廊下、病室のような居室。建物の両側に配置された居室には大きな窓があるが、廊下は薄暗く、すこし陰気な感じがする。
しかし中で出会うスタッフや入居者は例外なくみな穏やかな笑顔。そして目が合うと「阿弥陀仏」と両手を合わせてくれる。
在宅でケアが大変だった認知症の方も、ほとんどが穏やかに過ごされるようになるそうだ。
ちなみに仏教の教えに基づき、食事は野菜中心で肉や魚はない。
タンパク質の不足が心配になったが、卵は大丈夫だということ。また施設外であれば、肉や魚を食べてもいいそうだ。
費用はすべて込みで月に2500元(2人部屋)から3000元(個室)。日本円で4~5万円とかなりリーズナブル。
それでも運営が成立している最大の理由は人件費が少ないことだろう。198人の入居定員に対し、介護スタッフはわずか11人。24時間勤務し続けたとしても1人で18人を担当する計算だ。実際のシフトを考えると1人で50人くらいを看ることになるのだろうか。日本では絶対に許されない人員配置の薄さだ。
しかし実際にはこれで回せている。
ポイントは3つあると感じた。
①ボランティアがイベントやレクのみならず、生活支援からマッサージ・リハビリまで幅広く支援してくれていること。
②施設のケアに満足できない人は、自費で外部のサービスを利用していること。
③入居者同士に大家族や隣人のような意識があり、お互いに助け合う関係にあること。たとえば念仏や説法に行くために車いすを押すのは、自立度の高い入居者が手伝う。
細かいケアプランなどには縛られず、互いの生活の困りごとを互いに手伝い、本当に必要なところに介護スタッフが入る、という感じだろうか。
現在、自立度の高い人たちの要介護度が上がっていくと、このモデルが成立し続けるのかどうかわからないが、日本のケアにおいても1つのケーススタディになると思った。
ちなみにボランティア以外にも個人や団体から寄付が寄せられることも多く、現金は基金として積み立て、運営にも活用しているという。
スピリチュアルケアは本来、宗教が担ってきたのだ、という意見がある。
実際、この施設を見学し、看取りまでのスムーズな支援の流れを見ていると、これは一理あると再確認した。
しかし、どこかに違和感もあった。
それは、入居者の個々の生活が見えなかったことだ。
生活を支える、ということを考えながら仕事をしてきた立場でこの現場を見たとき、自分ならこの人たちに何ができるのだろうか、と考えた。
信仰に生きるということは、宗教のルールに従い、日々を過ごしていく、ということなのだろうか。そして、それがその人たちの生活の目標となり、喜びになる、ということなのだろうか。
施設では「南無阿弥陀仏」という念仏がBGMのように一定の間隔で流れ続けていた。
1日3回の念仏の時間には、入居者が仏間に集まり、「南無阿弥陀仏」と唱えながら部屋の中を行進する。
煩悩に生きる僕には、一定間隔で壁に掲示されている仏画が監視者のように見えた。
ちなみにこの施設は海外からの視察を受け入れるのは今回が初めてとのこと。
貴重な経験をさせていただいた王 青 (Qing Wang)さんの目利き力には脱帽。